兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2015年10月25日(1796号) ピックアップニュース

第87回評議員会特別講演 講演録 報道現場から見た安倍政権
TBS執行役員『報道特集』キャスター 金平 茂紀氏

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【かねひら しげのり】1977年にTBSに入社。社会部、『JNNニュースコープ』副編集長、『筑紫哲也 NEWS23』編集長を務め、2008年からはアメリカ総局長として、アメリカを中心に取材を続ける。2010年にTBS執行役員に就任。『報道特集』のメインキャスターを務めている。2004年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞

 5月17日にTBS執行役員、『報道特集』キャスターの金平茂紀氏を招いて開催した、第87回評議員会特別講演「報道現場から見た安倍政権」の講演録を掲載する。
(文責:編集部)

沖縄県民大会と大阪住民投票
 私は1953年生まれだが、この年は日本でテレビ放送が始まった年でもある。だから、私はテレビを見ながら自分の価値観を養ってきた。
 本日(5月17日)は非常に大切な日だ。本日、沖縄県では「戦後70年止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」が開催されている。また、大阪では、大阪都構想の実現の是非を問う住民投票が行われている。県民大会も住民投票もどちらも住民の意思表示の機会だが、今回の二つは性格が真逆だ。
 沖縄の県民大会は草の根の住民から発信された意思表示の機会だが、大阪の住民投票は住民から出てきた話ではなく、上から降ってきた機会だ。主人公が誰かを考えれば、この二つの性格の違いははっきりする。私は大阪の住民投票の結果を非常に心配している。もし、賛成が多数になって都構想が実現すれば、神戸にも大きな影響が出るだろう。
 また、この間の選挙では無投票とか10%というような低投票率が多くなっている。これは国民、住民が自分の権利を放棄しているということで、日本の民主主義の危機だ。
「災後」から「戦前」へ
 さて、私は戦後の中で、今ほどひどい時代はないと考えている。私たちはこれまで、自分たちの生きる時代を「戦後」という枠組みでとらえてきた。しかし、この枠組みが変わったのではないかと思っている。
 それが変わるきっかけは東日本大震災と福島第一原子力発電所事故だと思う。今、福島第一原発事故で溶け出した核燃料がどうなっているのかだれも分からないし、廃炉にするために40年かかると言われているが、もっと長い年月を要するだろう。私たちの孫の代までかかるかもしれない。とんでもないことが起きているのだ。
 しかし、人間というのは忘れやすい。少し前のことでも忘れてしまう。多くの人が「今さえ良ければ」「カネさえ儲かれば」「自分さえよければ」という価値観になり、戦後とは違う時代、「災後」に入っていたのではないかと思う。ところがその「災後」を生き損ねた結果、「災後」を経て、今「戦前」という時代に入ったのではないかということだ。
 では、「戦前」とはどんな時代か。それは「忘却とイナーシア(慣性)」の時代だ。つまり、自分たちにとって不都合なことはなかったことにし、忘れて、前の通りにやればいいという考え方だ。震災も津波も原発事故もなかったことにして、バブルの頃のように株価を上げて、経済指標が上がれば問題がないという時代に後戻りしているのではないか。
 そしてこの「戦前」という時代が始まったのは安倍政権の誕生によるものだ。安倍政権の下で、これまでの「国民主権」から「国家主権」へという流れが加速している。具体的には、安保関連法制定への動き、集団的自衛権行使容認の閣議決定、特定秘密保護法の制定、日本版NSC(国家安全保障会議)創設、武器輸出3原則の形骸化、原発再稼働へ向けた動きなどだ。
 また、米軍普天間基地の辺野古沖への移設もある。沖縄では県民が再三にわたり、選挙を通じて、米軍普天間基地の辺野古移設に反対の意思表示をしている。しかし、安倍政権はそれを無視し、アメリカに対して、辺野古移設が唯一の道だと述べ、移設を約束している。沖縄県民が怒っているのは「日本政府はどちらを向いて政治をしているのか」ということだ。まるで沖縄は植民地ではないか。
 また、あまり知られていないが教育現場でも政治の統制が強くなっている。教科書の検定基準が変わったし、道徳が教科化される。「6年間、道徳の成績はAだったよ」とか「道徳のテストで95点だった」などという子どもが生まれる世の中になるということだ。ばかげている。道徳を教科にしようなどという政治家こそ、道徳が必要だろう。
 もう一つの特徴は、メディアへの締め付けが露骨になってきているということだ。
「偏狭なナショナリズム」
 その背景にあるものは、「偏狭なナショナリズム」だ。ナショナリズム自体は悪いことではないと思う。自分の同胞を愛したり、自分のふるさとを大切にすることはあたりまえだ。
 しかし、自分たちだけが優れていて、隣人が劣っているという全く根拠のない「偏狭なナショナリズム」は問題だ。私はロシアにもアメリカにも住んでいたことがあるし、世界70カ国以上を訪れたことがある。実際に見てきた中で、どこの国の人が劣っているなどということはない。はっきりしているのは、どこの国にも優れた人も劣った人もおり、いろいろなタイプの人がいるということだ。
 ヘイトスピーチ(人種や宗教などに起因する差別的表現)では、「良い韓国人も悪い韓国人も殺せ」というプラカードを掲げている人がいる。本当に深刻な問題だ。こんなプラカードを掲げていたら、ドイツでは逮捕されてしまう。本日ご参加の中には在日韓国・朝鮮人の方もいるかと思うけれど、大変恐ろしい思いをしているだろう。
 もう一つは、反知性主義と歴史修正主義だ。考えることや学ぶことを馬鹿にする傾向が社会に蔓延している。役立たずのインテリよりも勢いのある人についていくという風潮がある。コツコツ勉強したり、汗を流すことを馬鹿にする風潮は非常に危険だ。こうした考えが蔓延すれば、国の文化などこれまで社会が培ってきたものがダメになってしまう。
 また歴史的な事実を抹消する、自分たちに都合の悪いことをなかったことにしてしまうという傾向も顕著だ。
 残念ながら、私たちの祖父や父は戦争に行って、極限状態におかれ、残虐なことを行った。それは日本人だけではない。戦場ではあらゆるところでそうしたことが起こった。しかし、日本人が行ったことをなかったことにすることはできないはずだ。アメリカだって日本への原爆をなかったとは言わない。従軍慰安婦に強制性はなかったとか、南京大虐殺はなかったというふうに、都合の悪い歴史的事実をなかったことにする方向はとても危険だ。
政府によるメディアへの介入・統制
 安倍政権の特徴としてメディアへの統制がある。全国紙とか在京キー局とか在阪準キー局、通信社、大出版社には、これまでリベラルとコンサバという二極があった。しかし、どんどんリベラルが力をなくしている。一方で、「御用メディア」が幅を利かせている。英語では「poodle(プードル)」、日本語では「ポチ」というやつだ。私が77年にTBSに入社した時は、「こういうのにだけはなるな」と厳しく言われたものだ。
 政権のメディアへの介入で、最近起こった実例をいくつか紹介する。
 自民党は前回2014年12月の総選挙にあたって「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」という文書をテレビ局に送っている。テレビ局に対して政権党が注文を付けるなどというのはとんでもないことだ。こんなものを受け取り何の抵抗も示さないテレビ局側にも問題がある。私はこの問題を自分が担当している番組で取り上げたが、どのテレビ局も問題視しなかった。他局では田原総一朗氏が「朝まで生テレビ!」の冒頭に少し触れた程度だった。
 また、テレビ朝日の「報道ステーション」のコメンテーターを降板した元経済産業省官僚の古賀茂明氏が、最後の出演時に「官邸から圧力があった」と発言し、キャスターの古舘伊知郎氏と口論になった。それと、NHKの報道番組「クローズアップ現代」でやらせ疑惑があったとされた。これらを自民党が問題視して、委員会にそれぞれの局の幹部を呼び出している。これも放送法に違反していると思う。
 もう一つ、朝日新聞を巡る問題だ。朝日新聞はリベラル陣営の代表のように思われている。朝日新聞は、従軍慰安婦「吉田証言」報道、原発事故「吉田調書」報道、池上コラム問題の三つで大きな傷を負った。これはある意味では自滅行為的な部分があったと思う。
 そして、その後他のマスコミによる朝日バッシングの包囲網で、朝日新聞は非常に弱くなっている。記事も論調が弱くなっているし、社内でも超軽量級の人が幹部になったりしているし、社内の監視体制も強まっていると聞いている。
 政府の広報がしたいなら、記者クラブに入る必要もない。政府の広報局としてせっせと政府の言うことを垂れ流せばいい。でもそれは、メディアでもジャーナリズムでもない。戦時中の大本営と同じだ。大本営はウソばかりついていた。広島に原爆が投下されたとき、「若干の被害」と報じていた。朝日新聞だって原爆投下の記事は3行だった。戦争に勝つためなら事実を曲げていいというのが、大本営の立場だった。
メディアの役割とは
 メディアの役割とはどのようなものだろう。
 一つは、事実の正確かつ迅速な伝達。これは国民の「知る権利」への奉仕だ。
 そして、議題設定。今、多くの人に考えてもらわなければならない問題を提起することだ。例えば、大阪都構想のことを報道して、社会の多くの人に「結果ぐらいはきちんと知っておかないとな」と思わせることもメディアの役割だ。
 そして、最も大切なことは権力監視だ。どこの国のメディアでも最も重視していることだ。この機能を果たしていないメディアは、たとえば北朝鮮や中国のメディアだ。
 また、少数者の視点を紹介することも大切だ。多数派は声も大きいが、民主主義の民主主義たるゆえんは少数者の意見をどう取り上げるかだ。また、多様な意見の確保も大切だ。
 こういうことを私は筑紫哲也氏に教わった。彼はいつもにこにこしていたが、メディアの役割にはすごく厳しい人だった。
 筑紫さんが亡くなる前、最後の出演となった「ニュース23」の「多事争論」コーナーでも、末期がんでしゃべるのもつらい中、息も絶え絶えに、メディアの役割を語っていた。あれは後に続く人への遺言として残していった言葉だと思う。
今、メディアの世界で起こっていること

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会員・市民ら184人が聞き入った(5月17日、県農業会館)

 筑紫さんが亡くなって6年、今メディアで起こっていることを整理してみた。
 今、メディアの間では「官尊民卑」思想の浸透が進んでいる。政治家や官僚が言うことには価値があるという考え方だ。記者クラブで配られる政府の資料には価値があって、住民運動をしている人たちがまとめた資料には価値がないという考え方だ。
 これが、「安全」「治安」を最重要視するという報道姿勢につながっている。具体的には警察や検察ネタを重視しすぎている。「こんな悪いヤツがいました」という報道だ。しかし、こんな報道はだれにでもできる。メディアにいると新人のころに県警の記者クラブに回される。そうして取材活動を続けていると、記者の社会を見る目が警察官のようになっていく。
 テレビを見ていると夕方の報道番組で「密着 万引きGメン」のような特集をしていることがある。こんな番組に何の意味があるのか。500円の商品を万引きした人を捕まえることがそんなに大切なことなのか。捕まった人が生活に困っているお年寄りであっても、大問題かのように報道する。こんなものはジャーナリズムではない。本来なら、万引きをした人がなぜ、そうしてしまったのかを報道すべきだろう。
 また、私が腹に据えかねているのは、IS(イスラミックステート)に後藤健二さんが殺されたが、その検証報道がほとんどされていないことだ。政権にとって都合の悪いことは出てこない。本来ならそれを検証して報道するのがジャーナリズムの役割のはずだ。
 また、記者の質も劣化している。記者会見で質問しない記者ばかりになっている。質問をせずにパソコンの画面を見てキーボードをたたいているだけの記者が多い。記者として質問することは、取材の基本中の基本だが、それができない記者が多い。
 メディアの自主規制も問題だ。先ほど述べたように朝日新聞は、従軍慰安婦「吉田証言」報道、原発事故「吉田調書」報道、池上コラム問題でひどい目にあった。山口淑子(李香蘭)氏が2014年9月7日に亡くなった。彼女は激動の昭和史を代表する人物で波瀾万丈の人生を送った。もちろん朝日新聞も社会面で彼女の大きな特集を組んだ。しかし、彼女が元従軍慰安婦の補償のために設立された「女性のためのアジア平和国民基金」の呼びかけ人となり、同基金の副理事長を務めていたことを全部削除して掲載したのだ。
 自分たちの間違いでバッシングを受けて、「カットしちゃえ」ということになった。これはひどいと思う。
政権とメディアのあるべき関係
 1972年6月17日、安倍総理の大叔父の佐藤栄作元首相の退陣記者会見でメディア史に残る大事件が起こった。
 記者会見の冒頭、佐藤元首相は「テレビカメラはどこかね?...新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。...さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ...」と発言して引き上げてしまった。
 その後、会見場に戻った元首相に対し、新聞記者が「内閣記者会としてはさっきの発言、テレビと新聞を分ける考えは絶対許せない」と抗議したが、元首相は「それならば出てってください」と答え、新聞記者もテレビ局の記者も出ていってしまった。それで、佐藤元首相は記者のいない記者会見をすることになった。
 これは当時の政権とメディアの関係が健全だったというエピソードだ。
 今の政権とメディアにそういうことはない。
昔から続く政権のメディアへの介入
 最後にもう一つ。政権のメディアへの介入についてエピソードをお話ししたい。
 TBSで昔、夕方6時30分から「ニュースコープ」という番組をやっていた。メインキャスターは田英夫氏と戸川猪佐武氏で、あの頃、一番信頼感のあるニュース番組だった。
 私が入社する前だが、この番組を巡って大事件があった。当時、ベトナム戦争の最中だった。日本では沖縄から連日、アメリカ軍が北爆に出ていっており、そのニュースが流されていた。
 田英夫氏はアメリカの敵国である北ベトナムに行って、爆撃される側からのレポートを行った。西側諸国のなかで初めて現地に入った番組だ。これを見た自民党の幹部が激怒した。そして、最終的に田英夫氏はキャスターを解任された。
 この話は、その後も語り継がれて、TBSの報道局員は、田氏が解任されてから、ずっと黒い喪章を付けていた。私は田氏に直接、なぜ解任されたのかを聞き番組を作り、「NEWS23」で流した。
 この事件が起こったのは1968年の話だ。こうしたことが起こらないようにと思っているが、実際には起きてしまっている。では、私たちはどうただしていけば良いのか。
これからどうすべきか
 報道とかテレビなどに限ったことではなく、社会運動でも、職場でも家庭でも、教育現場でも、共通していることは、ものが言い出しにくい管理、監視状況にあるということだ。
 本日の講演会だって、本当は来たいけれど、来られないという人がいるかもしれない。こうした講演会で講師を務めると、参加しているのは、私と同世代の人が中心で、若い人はあまりいない。なぜなのか。
 若い人は恐がっている。就職活動に悪影響が出るのではないかとか、そもそもデモは悪いことだと思っている。私たちの世代から見ればデモなどあたりまえだ。フランスではデモの中心は高校生だ。しかし、日本はそうなっていない。
 では、どうすればいいのか。一つは無謬主義という病理を克服することだ。人も、組織も、国も、必ず間違いをおかす。原発事故も「絶対安全」「世界で一番安全」と言われていた。しかし、そんなことあるわけない。事実、事故は起きてしまった。
 安倍首相は集団的自衛権行使容認の閣議決定を行った日の記者会見で「アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか。...そのようなことは絶対にありえません」と言った。こんなことがよく言えると思う。「絶対」などということは絶対にない。やはり、人も、企業や政党、宗教団体など組織も、国も間違えることがある。自分たちだけが正しいという無謬主義は危険だ。
 また、日本人全体が、違う業種や、違う国、地域、文化のバックグラウンドが全く異なる人たちと交流することが苦手になっているのではないか。
 今は、同じような年齢で同じような考えを持っている人だけで交流している。昔は仕事が終わって飲みに行くときは、老若男女みんなでわいわいやっていた。今は、メールで同じような人たちだけで飲みに行ってしまう。それではつまらない。先ほど記者が内向きになっていると言ったが、それは記者だけでなく、日本人全体に言えることではないか。ここを変えないといけない。
 横とつながることも大切だ。今、横に座っている人とすぐにつながれるだろうか。家に帰って配偶者と、職場で隣の同僚に、本日私が話したようなめんどくさい話ができるだろうか。なかなかできない。しかし、非常に大切なことだ。横の人とつながらないと、同じような人が集まって「がんばるぞ」と言ってもなかなか力にならない。
 ユーモアや笑いというのも大切だ。テレビでも余裕とか笑いとかそういうものがないといけない。つらいことがあった時、少しでも勇気や余裕を与えてくれることがないとがんばることはできない。
 カッコよさとか、お洒落というのも大切だ。これは労働組合の人たちに特に言いたいのだが、今までのスタイルはかっこ悪い。最近、面白いなと思うのは、脱原発の運動をしているグループで、鳴りものを使っている人たちがいる。あれは、いい。楽しくなければ若い人はついてこない。「シュプレヒコール」なんて若い人はひいてしまう。
 最後は、こうして話を聞いたり、本を読んだり、学ぶことや知ることの価値を大切にすることだ。これは、国籍も年齢も関係ない。学んで何かを始めたり、交流したり、意思表示したりしていこう。
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