兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2015年4月25日(1781号) ピックアップニュース

インタビュー「ひょうごの医療」
"人間万事 塞翁が馬"
洲本市松本産婦人科医院 松本 敬明先生

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陸軍の訓練で指が長くなり診療に役立った、と松本先生

【まつもと よしあき】1921年神戸市生まれ。多聞小学校、神戸一中卒業。42年大阪帝国大学臨時附属医学専門部卒業後、陸軍入隊、ビルマ(現ミャンマー)へ配属され、インパール作戦へ参加、46年復員。51年徳島医科大学産婦人科教室助手、徳島市民病院産婦人科勤務、67年開業

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聞き手 辻 一城理事

 淡路島で、約50年間診療を続けている松本敬明先生を、辻一城理事がインタビュー。戦争体験や、協会・支部活動の思い出などについて、話を伺った。

軍隊経験と逆子の手術
  医師を志されたのはいつ頃ですか。
 松本 昭和13(1938)年に神戸一中を卒業し、理科系の学部を目指し一浪していたのですが、大阪帝国大学臨時附属医学専門部(現・大阪大学医学部)の募集が急にあり、受けたら合格しました。
  軍医の養成ということだったのでしょうか。
 松本 当初はそうだと思います。戦争が始まって昭和17(1942)年9月に、半年繰り上げ卒業になりました。当時は文系も理系も、兵隊が必要だということでそうなっていました。卒業式から9日後の10月1日には姫路の陸軍歩兵に入りました。医学部3年の時に結核を患っていたので「兵隊に行かんでええわ」と思っていたのですが、徴兵検査でその日は朝から不合格になる人が多く、徴兵官から「お前はどうせ軍医になるんやなぁ」と言われ第一乙種合格になってしまったのです。
 履歴書にラグビー部だったと書いていたために、55キロもある重機関銃の部隊に入れられ、運搬の訓練をしました。そのせいか指が人よりも長く、のちに逆子を引っ張り出すときに役立つようになりました。若い産科医に同じ方法を教えると、「先生、届きません」と言われるぐらい(笑)。人間万事塞翁が馬やなぁと思いますね。
戦地−ビルマでの忘れえぬ体験
  戦場では地雷の爆発を受けたそうですね。
 松本 昭和20(1945)年6月3日、タイとの国境付近でした。
  よくご無事で。
 松本 お米の入った雑のうを腰に巻いていたおかげです。証明書には両大腿爆創、臀部右上剥と書いてあります。手にはそのときの石も入ったままです。通り過ぎた後で爆発したのもよかった。もし前から爆発を受けたら、腹膜炎を起こし、モルヒネを打って安らかな最期を迎えるばかりということになります。薬はマラリアとアメーバ赤痢の薬とモルヒネしか供給されなかった。戦場ではみんなそんな風でした。
  それでは治療らしい治療はできないですね。
 松本 アメーバ赤痢にかかった時は、ヤミで流通していた、インド人から買ったエメチンという薬を飲んだらきれいに下痢が治り、「いい薬やなぁ」と思ったものです。
  負傷されてからはどうでしたか。
 松本 傷は自然治癒でした。兵隊が作ってくれた松葉づえをついて歩いていたら、負傷兵の輸送をする日本軍の象部隊に出会い、象の背中に乗せてもらってタイの方へ向かいました。
  先生のおられた部隊はどうなったのでしょうか。
 松本 もうバラバラでした。私は日本にちょっとでも近い方へとタイに向かったのがよかった。捕虜として終戦を迎えましたが、アメリカという国は、赤十字条約をきちんと守り医師として処遇してくれました。1カ月ほど船を待ち、バンコクから日本へは3週間かかりました。毎晩、甲板の上で語り明かしました。初めは日本へ向かっているのか疑っていましたが、誰かが「おい! 日本が見える!」と叫び皆で涙を流しました。あの感激は終生忘れることはないでしょう。昭和21(1946)年6月30日に鹿児島へ上陸、神戸まで貨物列車で戻りました。
戦後−婦人科医療との出会い
  神戸に戻られてからすぐ診療されたのですか。
 松本 家は空襲で焼け、借家にいました。親父に「あんまり遊んどっても困るで」と言われ、長田に向かっていたら「医師求ム」という貼紙があり、聞くと「明日から来てくれ」と。
  即、就職決定ですね。
 松本 そこは2階が神楽保健所、1階が性病診療所になっていて、同診療所に勤務しました。そこで岡田廉三先生から、「内科をやるつもりらしいけど、婦人科もおもしろいでっせ」と言われました。
  まだ焼け野原の時代ですよね。
 松本 昭和21(1946)年ですからね。アメリカの占領下で、ペニシリンの使用も報告する必要がありました。淋病だった某先生に黙っておくよう頼まれ、「落として割れた」と報告したことがあります。するとアメリカの軍医は、ニコニコ笑って固い石にペニシリンの容器をぶつけたのです。だけど割れない(笑)。こっちが困っていたら、「OKOK」と言ってくれました。付き合う中で同じ人間なんだなと思いました。
  お産もされていたのですか。
 松本 岡田先生と親しく、お産や手術が上手なことで有名な、中野理先生が院長の市立須磨病院によく行きました。そこでたくさん見せてもらって、いつの間にかできるようになっていました。そうしている間に大阪大学の恩師の飯田無二先生が徳島大学教授になり、「手術できるやつおらへんねん、ちょっと来い」で徳島大学へ行きました。
開業−淡路島への「不時着」
  洲本での開業はいつ頃でしたか。
 松本 昭和42(1967)年です。島太郎先生(仁寿堂医院・洲本市)の誘いでした。島先生とは姫路の陸軍病院で出会い、熱を出した島先生の頭を冷やしたのを「世話になった」とずっと言われていました。開業時は、建物の手配から行政への届出まで今度は島先生に全部お世話になりました。島先生はすごい絵描きで、支部ニュース記念号の表紙も飾ってもらいました。ゆくゆくは神戸へ帰ろうと思っていましたから、不時着みたいなものと思っています(笑)。
  島先生にとっては命の恩人のように思われていたのでしょうね。どれぐらいのお産や患者さんを診てこられましたか。
 松本 お産は500人ほどで、手術が2〜3人です。中絶は日に5〜6人ぐらいあって、それが収入源になっていました。島内の産科は津名の清木昌之介先生、向田先生、三原の後藤先生しかなかったですね。しばらくは県立淡路病院と当院しかなかったときもありました。その頃島内の患者さんは、神戸や明石、徳島へと船で渡っていました。
  地域の方は先生が開業されて助かりましたね。
 松本 開業早々からかなりの患者さんが来てくれました。うちの待合室は患者さんに作ってもらったようなものです。椅子も座布団も、吊るしてある飾りもいただきました。待合室同窓会もできました。
  待合室にも歴史ありですね。
 松本 水害にも見舞われました。跡が残った地図を証明としてそのままにしています。2年前の淡路島地震では、診察室の棚が倒れてきて大変でしたが、神棚の手入れをしていて間一髪助かりました。協会はすぐに訪問してくれましたね。

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昔の写真を見ながら、話がはずんだ

協会との出会い−支部活動を振り返って
  協会活動にはいつ頃関わられるようになったのでしょうか。
 松本 初代の支部長だった清木先生は婦人科で、誘われてついて行ったのが淡路支部設立の相談会でした。設立総会には桐島正義協会理事長(当時)、森下敬司先生にも来ていただきました。桐島先生とは昔の神戸一中卒で同学、清木先生は大阪大学の後輩で、縁がおもしろいなぁと思いましたね。どちらかというと右寄りの私に、桐島先生から「あんたみたいなん、おもしろうてええわ」と言われたこともありますよ。
  淡路支部は県下2番目に設立されました。
 松本 支部ニュースは昭和54(1979)年の創刊から担当しています。コラムのタイトルは口癖の「何とかならんかなぁ」から始まって、「何とかなるやろう」、今の「Let's」へと3代目です。それから、毎年の支部総会の記念講演には、医師に限らず、日本で5指に入る講師を呼ぼうと取り組んでいました。一番目は野村拓大阪大学助教授(当時)でした。消化器内科で有名な中島正継先生を呼んだときには、周りから「あのような先生がなんで淡路に来てくれるのか」と言われましたが、実はお父さんが淡路で開業されていた先生でした。
  松本先生の人脈で来てもらったのですね。
 松本 一度マジシャンにきてもらったときは、あまりにも保険医協会の趣旨から外れていると怒られましたが(笑)。市民公開で開催した昇幹夫日本笑い学会副会長のときはすごかったですね。予備の会場まで一杯になりました。
  非常に熱心に取り組まれてこられたのですね。
 松本 一番忙しいときは、医師会理事、産科婦人科学会理事、協会評議員、東洋医学会、それに神戸一中のこともやっていて、ひと月に16回も洲本と神戸を結ぶ高速艇に乗船した時は、改札の人に「あんた何してる人? あんたぐらい神戸行く人おらん」と言われるほどでした(笑)。 
  長年診療を続けてこられた秘訣は。
 松本 陸軍で歩兵でしたからね、歩くことです。診察で患者さんと会話することも健康の素です。ライフワークは「下垂体〜性腺系ホルモン」で、学位論文もこのテーマでした。このごろはホルモン剤と抗生物質はいわゆる西洋薬を使っていますが、他は漢方薬ばかりで今は漢方医みたいなものです。
  いま協会に求めることはありますか。
 松本 今まで通りでいいのではないでしょうか。同じ洲本市の三根一乗議長の言葉を借りれば、「誠実に、しなやかに、時にはしたたかに」さまざまな意見を取りまとめた運営を続けてほしいですね。
  本日はありがとうございました。
インタビューを終えて
 戦後70年の節目の年に、保険医協会の大先輩である松本先生から戦争体験を直接お聞きできたのは、私自身の貴重な経験になりました。これからもずっと、新たに戦争を体験する人がいない日本であってほしいものです。(辻)
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