兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2019年8月05日(1917号) ピックアップニュース

会員インタビュー 「協会設立50年をふり返る」 岡本好司協会理事
不合理な審査・指導を指摘

 兵庫県保険医協会は設立50周年を迎えた。協会の前身である保険医クラブからの会員である灘区・昭生病院の岡本好司先生(協会理事)に研究会や審査・指導問題を中心としたこれまでの活動の歩みなどについて、宮武博明副理事長が話を伺った。

不当な審査に声上げた保険医クラブ時代
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岡本好司協会理事
【おかもと こうじ】
 1929年生まれ。56年神戸大学医学部卒業後、57年より昭生病院に勤務。66〜79年まで西宮市で岡本医院を夜間開業。現在昭生病院顧問。1975〜80年、1987〜89年評議員、1989年〜理事、1989〜95年研究部長

 宮武 本日はよろしくお願いいたします。先生は協会の前身の保険医クラブ時代に入会されたのですね。
 岡本 私が入会した1960年代は、兵庫県による過酷な保険審査・減点が行われていました。私も減点こそありませんでしたが、「病名が偏りすぎ」「複数の患者に同じ検査ばかりやっている」などの指摘を数多く受けました。私は循環器内科でしたので、循環器の病名が多くなったり、同じ検査が多くなるのも仕方ないと思うのですが、当時はこういった不合理な審査・指導が多くありました。いったいこれはどうしたものかと、当時の灘区医師会長の北畠三典先生に相談したところ、保険医クラブで請求について勉強すると良いと紹介を受け、入会しました。
 宮武 今でも行き過ぎた指導などの問題がありますが、当時の厳しさは比べ物にならなかったでしょうね。
 岡本 その通りです。厚生省による集団指導では、平均点数を100点超えたら一律で削る、初診での検査は認めないなどの方針が出されていました。しかしそれでは必要な医療が提供できないと、抗議されたのが、協会初代理事長の桐島正義先生をはじめ、戸嶋寛年副理事長、合志至誠副理事長、川口重義副理事長ら保険医クラブの先生方でした。パンフレット『審査、指導、監査の現状とその対策』を発行して各地域で学習会を開催したり、再審査の改善を国保連合会へ申し入れたりした結果、改善を勝ち取り、診療の幅を広げることができました。その一方で、患者すべてに「感冒・肝機能障害」と病名を付け、請求するような心ない人が出たことは残念なことでした。実際に行った診療を請求することは当然の権利ですが、不正な請求は行ってはいけません。
 宮武 審査・指導問題での闘いが、「開業医の生活と権利を守る」という協会の目的の原点だったのですね。その後も先生は、審査対策委員長として活躍されたと伺いました。
 岡本 今でもそうですが、審査で不合理な事例は多いですからね。私が審査対策委員長を務めていた頃は、腎性貧血疑いでエリスロポエチンを注射したら削られた、糖尿病疑いで、グリコヘモグロビンを検査したら削られた、など不合理な事例が見つかりました。病気の疑いがあるから検査をするのに、これは一体どういうことだろうかと知り合いだった担当官に尋ね、結果復活するということもありました。審査の方法についての学習会も開こうと、支払基金の職員の方にお話を持ちかけたのですが、協会の名前を出した途端に、審査に対してもひるまずに主張を貫く協会の先生方は怖いと映ったのか、断られてしまったこともありました。
協会事業の柱 学術研究会
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聞き手 宮武博明副理事長

 宮武 先生は研究部長も務められました。協会の研究会は薬の紹介だけではなく役に立つと、今も多くの先生が参加されています。これも設立時からの経緯があるのですね。
 岡本 1969年に保険医クラブが発展して保険医協会となりましたが、そこでの活動の中心は、医師の日常の診療に役立つ診療内容向上研究会でした。当時は今ほど検査が多くなかったので、限られた結果から、的確な診断を下さなければならなかったりして、難しい面もありました。当時は、世間では今のように頻繁に研究会が開催されている時代ではなかったので、医師の研鑽の場を提供しなければとの思いから協会は研究会の開催には熱心に取り組んできました。その甲斐あって、会員も急激に増えていったのではないかと思います。
診療のコツ伝え合う日常診療経験交流会
 宮武 日常診療経験交流会も先生のご発案と伺いました。
 岡本 協会の特長は、なんでも意見を聞いて、検討するところだと思います。
 日常診療経験交流会を開きたいと思ったのは、先生方の長年の診療の中で、さまざまな秘伝のコツを共有できる機会を持ちたいと思ったからです。過去に、子どもが診察にきて、検査などを嫌がったりしたときに、小児科の先生が出てこられて、少しあやしただけで機嫌が良くなるといったことがありました。そういうちょっとしたコツを紹介してもらうだけで、参考になりますよね。そういう工夫を交流し、学び合える機会を設けてほしい、その意見を先生方がくみ取ってくださり生まれたのが、日常診療経験交流会でした。今では30年近く続いている長寿企画です。ご自身の中では当たり前のことでも、他科の先生にとっては新鮮なこともあります。ちょっとしたことでも良いですから、先生方にはぜひ気負わずに、診療で気づいたことを発表していただければありがたいです。
戦争が終わって野球に打ち込む
 宮武 先生は戦前のお生まれで、戦時中に少年時代を過ごされた世代ですね。当時の状況について教えていただけますか。
 岡本 戦時中は、私は中学生でしたので、戦地に送られるということはありませんでしたが、尼崎の工場に動員されて、学校で勉強するよりもアルミの部品を作る仕事に従事していました。空襲で家が焼けても、ただお国のために工場で武器を作らされていた、所有している土地も紙切れ1枚で海軍の飛行場建設のために接収される、そんな時代でした。中学4年(現在の高校1年)の時に終戦を迎えましたが、今まで信じていたもの、例えば天皇は神であるとか、鬼畜米英討つべしなどの、それまで当たり前に思っていた価値観が逆転し、皆が少なからず戸惑っていたように思います。
 宮武 考えも及ばないような厳しい時代だったのが伝わってきます。
 岡本 混乱した時代でしたからこそ、何かに打ち込みたいとの思いが強かったのでしょう。中学の仲間たちが野球部を結成し、私も引きずりこまれて、夢中で練習をしました。しかし終戦直後で野球道具が足りず、仕方ないので、大阪タイガース(現阪神タイガース)の合宿所へ行って、ボールを分けていただいたりもしました。設立当初は練習試合でも手も足も出ず大敗するような状況でしたが、練習を重ねて、少しは見られるようになっていったのかと思います。
 そして全国中等学校優勝野球大会(現夏の甲子園)兵庫県予選を迎えました。兵庫は戦前から私立中学が非常に強く、私どもの公立中学は全くの無名の存在でした。しかし戦後混乱期で他校があまり練習できていなかったためか、準々決勝で、練習試合で大敗した私立中学相手に勝利し、それからあれよあれよという間に優勝し、部設立後1年も経たずに全国大会に初出場を果たせたのが、深く心に残っています。
 宮武 戦後に再開した後、初めてとなる夏の甲子園に県代表で出場されていたとは驚きです(当年は甲子園球場が米軍に接収されていたため西宮球場開催)。戦争中は中断していたわけですから、ここからも平和のありがたさを痛感します。私も九条の会兵庫県医師の会代表世話人として、戦争のない世の中を継続できるよう、今後もがんばって活動していきます。
広い視野でより良い医療を
 宮武 協会も7500人の会員を数えるまでに成長しました。協会の次代を担う若手医師に伝えたいことはございますか。
 岡本 最近の医師は、専門領域については深く勉強しておられると思いますが、患者さんから顔を見て診察してほしいとの要望を聞くことがあります。われわれ開業医は、患者さんにとって大切なかかりつけ医ですから、電子カルテではなく患者さんと向き合って、いつもと変わったところはないかなど、気を配って診察するように心がけてほしいですね。特に協会の研究会は、他科のことを知れますし、日常診療のスキルアップに直接つながるものが多いですから、積極的に参加してほしいと思います。
 もちろん医療以外にも広い視野を持って、私が少年期に経験した戦争を、今後誰も二度と経験することのないよう、平和問題にも目を配っていただきたいですね。
 宮武 先生のご期待に沿えるよう、協会一丸となって次の半世紀へ向けてまい進していく決意です。本日はどうもありがとうございました。
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