兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2021年6月15日(1976号) ピックアップニュース

新春政策研究会
「ポストコロナ社会をどう作るか?~『武器としての「資本論」』から考える」講演録
コロナ禍を機に新自由主義から脱却を

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京都精華大学人文学部専任講師
白井 聡先生
【しらい さとし】政治学、社会思想研究者。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。3・11を基点に日本現代史を論じた『永続敗戦論--戦後日本の核心』(太田出版)により、第4回いける本大賞、第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞を受賞

 1月9日に開催した新春政策研究会「ポストコロナ社会をどう作るか?~『武器としての「資本論」』から考える」(講師:京都精華大学人文学部専任講師 白井聡先生)の講演録を掲載する。

「永続敗戦」の日本社会

 私は大学、大学院時代は主に政治思想の研究をしてきたが、2011年に3・11に遭遇し、この国は大変な状態にあることに気づかされた。地震、津波に加え、原発事故という未曾有の災害に対する、政府や東京電力の無責任な対応に、既視感のような非常に奇妙な感覚を持った。それは、あの戦争の時の日本だ。
 戦後日本は、戦争への後悔と反省に立ち、平和と民主主義を大事にして、繁栄を得ることができたと語られてきた。かつて丸山眞男は、日本独特の天皇制ファシズムと言われるような戦前の社会形態を「無責任の体系」と名付けたが、私たちが本当に反省、後悔したのならば、この「無責任の体系」が克服されていなければならない。ところが原発事故はこの「無責任の体系」が日本社会に残り続けてきたということを明らかにした。
 なぜかと考え、気づいた。実は日本人は、内心ではあの戦争に負けたと思っていないんじゃないか。知識としてあの戦争に負けたことを知っているが現実として認めていない。そのような心理を否認と言う。
 日本では、8月15日を「終戦の日」と呼ぶ。本来、「敗戦の日」のはずだ。ここに敗戦の否認という歴史感覚が非常に分かりやすい形で表れている。負けたと思っていないから反省も後悔も、自己変革もする必要はなく、戦争を招いた社会システムがそのまま残り続けた。それは当然、新たなる敗北を招き寄せることになる。負けを認めないので負け続ける。
 以上のことを、2013年に出した『永続敗戦論』という本で論じた。敗戦の否認こそが戦後日本社会の、そして現代に続く最大の問題である。とするならば、そこで8年近く続いた安倍政権の本質とは何なのか。それは敗戦の否認の心情の結晶であり、戦後日本の悪いところを全部集めて固めたような政権にならざるを得ない。
 今、新型コロナ感染拡大のなかで、医療崩壊が起こり、医療機関からのすさまじい憤りの声が上がっている。今起きていることは3・11の時と同じではないか。この緊急時において、責任を負おうとする当事者がいないのだ。医療だけでなく、統治そのものが崩壊してきているのではないかと思う。

コロナが起こした二つの政変

 新型コロナは感染症だが、同時に政治的なインパクトを持つものであることが徐々に明らかになった。少なくとも二つ政変が起きている。日本の安倍首相の辞任と、アメリカのトランプ大統領の落選だ。
 自国コロナに対する国民の評価で、一番高いのはドイツのメルケル首相で、下から二番目に低いのがトランプ大統領、そして最下位が日本の安倍首相だった(図)。アメリカと日本では犠牲者の数の桁が違うのに、そのトランプ大統領よりも安倍首相の方が評価が低い。いかに安倍首相が信頼を得ることに大失敗したかを物語っている。
 アメリカでは、選挙を通じてトランプ政権が倒れた。アメリカの民主党の最左派としてバーニー・サンダースがよく知られているが、バイデン大統領は、サンダースとさまざまな約束をすることで、彼に民主党の大統領候補から降りてもらい、トランプに勝利することができた。だがその約束がどれくらい実現できるかは未知数で、サンダース派と軋轢が生じてくる可能性がある。また、トランプの勝利を信じているトランプ支持者たちがおり、今後アメリカでは一波乱も二波乱も政治の変化が出てくるだろうと思う。
 対して日本はどうか。黒川検事長の件でツイッターデモが大きく盛り上がり、政府与党は検事総長案を撤回せざるを得なくなった。このような政権の私物化などへの怒りに加え、コロナ危機があって、安倍首相は辞任に至った。ここには民衆によって追い込まれたという側面が絶対にある。しかし、追い詰められた安倍首相は、「体調不良による辞任」を演出した。政権の支持率も跳ね上がり、その中で成立したのが菅政権だ。菅政権の本質は、ひたすらな権力維持であり、安倍氏抜きの安倍政権なのだ。ここに日本の特徴がある。
 政治学者の中野晃一さんが「2012年体制」という言葉を使っている。2012年は第二次安倍政権が成立した年だ。
 この用語は「55年体制」という言葉を意識している。55年体制は自民党が永久与党、社会党が永久野党であり、政権交代は起きないという体制だった。平成時代の政治課題は55年体制に代わる政治を構築することだと長らく言われてきた。そして、それは政権交代可能な二大政党制だと言われ、小選挙区制度の導入と2009年の民主党政権の成立で完成したかに見えた。しかし、それはすぐに破綻し、安倍一強体制となっていった。この「安倍一強体制」という言葉は、安倍政権後期に使われるようになった注目すべき言葉だ。政権は「○○政権」と固有名で語られるものだが、体制というのは例えば幕藩体制、戦後民主主義体制、共産主義体制などというようにトップの人物が入れかわっても基本構造は変わらない。それだけの強固さを持った権力の構造だ。
 超長期政権のなかで量(在任期間)から質への転化が起こり、それは単なる政権ではなく「体制」になった。第二次安倍政権は、体制化したからこそ、あれだけ失政を重ね、醜聞を重ねても、倒れないものになった。そして菅政権になっても変わらないと言える。
 けれども今、いよいよその体制が持たなくなっているという瀬戸際であり、正念場とも言える。コロナこそが2012年体制を倒すような脅威として現れてきているわけだが、もっと視野を広げてみれば、マクロ的な問題を指摘できる。

コロナ危機は何を物語るか?

 まず、なぜ新型コロナウイルス感染症が起きてしまったのか。最近、SARSやMERSなど新興感染症が起こりすぎではないか。
 多くの方々が指摘しているが、南北問題が背景にあることは見逃せない。北側諸国が南側諸国を搾取するという構造によって長らく従属させられ、低開発にとどまってきた南側の国々が豊かになることを求め、自然を乱開発する。自然の中に潜んでいたウイルスが人間と接触し、新興感染症が生じる。やはりグローバルな不平等がコロナ発生の背景にある。
 先進国から見れば、押しつけたものが戻ってきたという感じでもある。不平等の問題がブーメランのように返ってきたが、先進国内でも不平等の連鎖は止まらない。仕事の環境、経済環境、医療体制等々が恵まれている人は生き残りやすいし、厳しい状況の人ほど感染しやすく死亡リスクも高いという命の不平等が存在している。
 アメリカでは貧困層と有色人種において、重症化率や死亡率が高いことがすでに明確に指摘されている。世界最先端の医療技術を持っている国であるのに、感染拡大を止められずにすさまじい数の犠牲者が出ている。その原因としては、アメリカには国民皆保険制度がないということがある。
 自己責任である新自由主義のもとでは、民間保険の未加入者が治療を受けられないことは仕方がないという考え方になる。しかし、コロナのような感染症を治療せずに放置すると、感染は拡大する。感染拡大抑制のためには、感染者を隔離・治療しなければ社会そのものの崩壊につながる。新型コロナは、新自由主義体制が感染症に対して原理的に無力であることを明らかにしたのだと思う。

コロナ危機は新自由主義を止めるか?

 この30年ほどで急速に進んできた社会の新自由主義化がコロナで一挙に止まるのか。コロナはよくペストとの比較がされる。ペストの致死率は極めて高く、農民が大量に死亡して労働力が不足したために農民の地位が向上した結果、封建制を崩す要因になったと言われる。また、教会での祈りが役に立たず、教会の権威を失墜させ、宗教改革にもつながった。
 コロナはペストに比べ致死率が低いことから、フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドは「新型コロナは世界を変革はしない。しかし、すでに生じている変化を加速させる」との見解を示している。「すでに生じている変化」というのは、グローバリゼーション、新自由主義化に対するカウンターのことだ。トランプ現象はその一つで、「グローバリゼーションなんてうんざり」という声はすでに可視化される力となってきていた。だからそれを後押しするような効果をコロナは持つだろうということだ。私はこの見立ては基本的には正しいのではないかと思う。
 そのときにどうやって新自由主義を乗り越えていくのかが問われる。そのためには新自由主義とは何かという理解を深めておく必要がある。

新自由主義とは何なのか?

 定説的には新自由主義とは、小さな政府、規制緩和、市場原理主義で、全てにおいて自己責任というのが典型的な考え方だ。
 対して、現代の有名なマルクス主義者であるデヴィット・ハーヴェイは、階級の視点が大事であるとしている。彼は新自由主義を、低成長時代における資本家階級から労働者階級への階級闘争であると定義づけた。階級闘争というのは、普通は下から上を突き上げて、もっと分配せよと要求したり、場合によっては支配関係を転覆させるものだ。しかし、新自由主義は上から下を奪うという逆立ちした階級闘争であるというわけだ。
 新自由主義が伸長してきた原因には、低成長が挙げられる。戦後の資本主義の歴史を見ると、1950~60年代には堅調な成長をしていたが、70年代頃から停滞があらわになる。そして80年代になって、イギリスやアメリカは明白な新自由主義路線を打ち出した。新自由主義路線の最初の触れ込みは、経済成長を取り戻すということだった。小さな政府にし、規制緩和して、市場原理主義・自己責任とするとモチベーションが上がり、生産性が上がり経済成長を取り戻し、みんな豊かになるという。
 ところが、新自由主義になってからも低成長のままだ。パイが増えずに、経済がゼロサムゲームに近くなった。
 その中で自分の取り分を増やすためには、よそから奪うしかない。資本家階級は自分の取り分を増やすため、労働者階級への分配を減らした。あるいは影響力やコネクションを利用し、国家資産の民営化などの際に火事場泥棒的に大きな利益を上げていく。だから、新自由主義の本質は上から下への階級闘争であるとハーヴェイは言うのだ。
 また、日本の思想家、柄谷行人さんの「ネオリベラリズムは自由主義とは無関係であって、帝国主義である」という発言は本質をついたものだと思う。確かに自己責任、弱肉強食というイデオロギーは、国際政治の次元に置き換えれば、強い国が弱い国を搾取や併合していくことは人類進歩の観点からは正しいことだというイデオロギーとなり、それは帝国主義の時代に跋扈したものである。新自由主義はそれのネオバージョンであるという。

魂を「包摂」する新自由主義

 私が重要視している観点は、これらをふまえた上で、新自由主義は一種の文明の原則になってしまっているということだ。資本家階級は自分たちがさらに肥え太るために労働者階級からどんどん奪っている。なのにこの間、労働者階級は何もしていない。なぜそんなに鈍感でいたのかと言えば、それは新自由主義が一つの文明と化していき、労働者階級もその中に包み込まれたからだと考えている。
 その包み込みのことをマルクスの資本論の用語では「包摂」と言う。マルクスは人間の生活がどれくらい資本主義の中に深く取り込まれていくかという段階を分けて、労働の資本のもとへの「形式的包摂」と「実質的包摂」という概念で分析した。
 例えば、農業共同体ですべて自給自足していると、商品生産がないため、資本主義度ゼロだ。農作業の片手間に手作業で工芸品をつくって売るということになれば、商品を生産しているので、少し資本主義に包摂されている。さらに農作物を自家消費や共同体的消費ではなく、市場に向けて売るとなってくると、包摂の度合いが高まってくる。それでも自分たちの畑を耕している限りは、農具も土地も自分のものだし、肥料や種子等も全部、自家調達しているもので買ってきたものではない。これは商品を生産していると言っても包摂は形式的な段階だ。
 対して、実質的な包摂の最高段階としてマルクスが描いたのは、大工場で機械、ベルトコンベヤーがあるところで人間が働くことだ。この場合、人間の働きは限りなく機械の補助に近く、機械のペースに合わせて体を動かすしかない。その商品を生産するための機械、原料、用具等はすべて資本側が用意したものであり、労働者のものではない。これが究極的に包摂された段階ということになる。
 形式的に包摂されている段階では、労働のあり方は、労働する人自身が決めることができる。ところが工場の機械の一部にされる状況では、労働者には一切自立性がなく、資本の命じるままに働くしかない。つまり、労働者自身の自立性の程度により形式的か実質的かの度合いが決まり、その中間段階は無限に存在するとマルクスは言っている。ただマルクスが見た19世紀の資本主義は、まだ労働の現場において包摂されている状況だけであり、工場から出たあとの人間に対して、資本は関心をあまり持っていなかった。
 20世紀半ばになると資本の側はそれでは不十分であると考えた。資本主義の発展には大量生産・大量消費が必要である。そのためには、1日の勤務を終えた労働者に、消費する主体としてがんばってもらわなければならない。例えば、広告によって欲望を煽り立てどんどん買わせる。それが拡大していくと、内面的なものである価値観、行動原理、思考、感性など、すなわち魂が資本のもとへ全面的に包摂される状態になってくる。これが20世紀後半から21世紀にかけて顕著になってきた現象だ。だからこそ新自由主義がどんなに横暴を極めても、一向に反撃が起こらないという状況が生じてきた。

きっかけとしてのコロナ危機

 それに対してコロナが一撃を加えつつあるのではないか。イギリスのジョンソン首相がコロナに罹患し「社会というものは本当に存在する」と言ったことは驚きだ。なぜならばこれはマーガレット・サッチャーの「社会なんてものは存在しない」という新自由主義のスローガンとなった言葉の全面否定だからだ。保守党の大先輩であるサッチャーの有名な言葉を正面から否定したのである。
 コロナというのは新自由主義的イデオロギーを実践的に粉砕するものである。これをきっかけに私たちは何をすべきか。人間の魂が変わらなければ、日本の腐った政治も変わらないし、やはり新自由主義からの脱却はできないと思う。

図 2020年7月実施の国際世論調査自国首脳のコロナ危機への対応評価
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発行 東洋経済新報社、2020年4月、定価1760円(税込)

白井聡先生ご著書
『武器としての「資本論」』
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