兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2023年8月05日(2045号) ピックアップニュース

核兵器のない世界へインタビュー
父の被爆体験を語り継いでいく-

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工藤 惠康先生
【くどう よしみち】1948年8月6日生まれ。広島県福山市出身。ドイツ国立University of Wuerzburg卒業。大阪府内の病院理事長兼内科医師

 広島第二陸軍病院で被爆し、奇跡的に生還した元軍医である故・工藤功造先生を父に持ち、亡父の日記などから貴重な軍医の記録を集め、整理し発信することで、原爆の悲惨さを訴え続ける工藤惠康先生(大阪府内の病院理事長)。京都府城陽市の自宅を永本浩新聞部員が訪れ、その活動やそこに込めた思いなどを伺った。

怪光一閃かいこういっせん、眼眩く光芒こうぼうあまねく天地を覆ふ」

 永本 先生が運営しているウェブサイトを拝見しましたが、功造先生の日記は、当時の軍医が被爆とその後の治療などについて記録された大変貴重な史料ですね。また、先生が収集された当時を知ることのできる軍医の兵装や医療嚢なども非常に貴重なものですね。
 先生が功造先生の被爆体験を後世に伝えようとお考えになったきっかけについて教えてください。
 工藤 私が生まれたのは1948年8月6日、奇しくも広島への原爆投下の日の3年後です。ただ、父は生前、原爆について多くを語ってくれませんでした。
 2006年に父が亡くなった後、遺品整理をしていたところ一冊の古いアルバムを見つけました。その中に、「昭和19年5月中旬 第八号病室中庭ニ於イテ愛犬ヂョンヲ連レテ」と説明書きの書かれた写真(左)がありました。
 そこから、当時の広島がいかなる状況だったのか、父はどうしていたのかを調べようと様々な資料や写真を探し、父が書いた投稿や日記を読み、多くの被爆者やそのご遺族などにお会いして多くのお話を聞かせていただきました。
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聞き手 永本 浩監事


 永本 なるほど。功造先生の当時の日記を読ませていただきましたが、文語体の見事な文章ですね。当時のエリートの教養が垣間見えます。
 さて、功造先生は日記の中で原爆のことを「怪光一閃、眼眩く光芒遍く天地を覆ふ」と記述されています。当時の状況について教えていただけますか。
 工藤 はい。父は1915年3月8日広島県福山市で生まれました。優秀だったようで1934年に京都府立医科大学予科に入学します。1941年に同医科大学を卒業し、内科医師として京都第一赤十字病院に勤務後、1943年7月に招集され、広島陸軍病院江波分院に配属されました。
 1945年、本土決戦に備えて、本院と各分院は指揮系統と患者収容区分が改変されました。父は1945年5月に陸軍少尉となり、おそらくこれにともない第二陸軍病院本院に転属となったのだと思います。
 原爆投下当日、父は爆心地から800メートルほどしか離れていない第二陸軍病院本院の15号病棟の処置室で看護師14人とともに朝礼を行っていたようです。父が就寝していた医官室は爆心地の方向に直面しており、大きなガラス張りの窓がありましたから、原爆投下がもう少し早ければ、父も即死していたのではないかと思います。
 原爆により病院は、炊事場の煙突一本を残して、全病棟が全焼し、軍人と医療従事者、入院患者のうち75%が即死しました。
 原爆投下後、倒壊した病棟からはい出した父は、戸坂国民学校に避難し、救護活動を行ったようです。しかし、軍から軍医はすぐに病院に戻れとの指令を受けて、全壊した病院近くの太田川畔のテント内で診療を行っていたようです。
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広島陸軍病院江波分院で愛犬ジョンと撮影した功造先生(1944年5月中旬)

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原爆投下後の広島。(上)被爆地近くの原爆ドーム(広島県物産陳列館)、(下)被爆者を診察する医師(米軍資料より引用)

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原爆投下前後の広島の航空写真を見せながら当時の状況を説明

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ともに被爆者の救援にあたっていた肥田舜太郎先生(左)と再会

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爆心地から約800mにあった広島第二陸軍病院本院の原爆投下前後の写真(上は1945年7月25日、下は8月8日)。功造先生は#1の15号病棟で朝礼を行っていた(米国国立公文書館所有より引用)

原爆投下後「診ありて療なし」
 永本 原爆投下後の診療について、功造先生は「診ありて療なし。繃帯一巻、薬剤半錠すらなきを奈何せん。僅かに近郷より恵まれし食油にメリケン粉を混じて患部に塗布し水を与ふるに止るのみ」と日記に書かれていますが、大変な状況がありありと浮かんできます。「診ありて療なし」。まさに医師としての苦悩が分かります。
 工藤 そうですね。多くの命を救えなかったその時の無念が、91歳で亡くなる1年前まで診療を続けた原動力だったのではないかと思います。
 永本 功造先生の原爆投下前日の日記で「大日本帝国陸軍将校として死に処するの道を説くのみ。田中少尉は曰く、一死国難に殉ずるも、一つの道なるも、我々の真の生命は医師にあり、これより先、なすべきこと多々あり、死を急ぐべからずと。一同うなずく」とあります。
 帝国陸軍将校として国のために死を覚悟しながらも、死に急がず、医師としてしなければならないことがあるという決意も、功造先生が戦後、患者さんのために医療に邁進した理由かもしれませんね。
 工藤 確かに。そうかもしれません。
肥田舜太郎先生と父の60年ぶりの再会
 永本 内部被曝の危険性を告発し、反核・反原発を強く訴えておられた故・肥田舜太郎先生とも、先生は親しくされていたんですよね。
 工藤 肥田先生との出会いは2005年です。父と同じように軍医として広島で被爆され、その体験を世界中でご講演されているということを知り、名古屋で開催されていた「第16回反核医師のつどいIN愛知」でご講演の際に、知己を得ることができました。
 講演後に広島陸軍病院のことや被爆の話をお聞きし、その中で、父と肥田先生がともに戸坂国民学校で被爆者の救援に当たっていたことも分かりました。
 その年の12月には父と肥田先生を引き合わせました。60年ぶりの再会となります。肥田先生は軍医中尉で第一陸軍病院検査科、父は第二陸軍病院内科医でしたので、もともと面識はなく、戸坂国民学校での救護活動中も大変な状況の中、お互い自己紹介などする時間などもなかったでしょうから、お互いに覚えてはいませんでした。それでも別れ際に肥田先生が父に向かって「死ぬなよ!がんばれ」と力強く握手されたのが印象的でした。
 また、2013年に広島陸軍病院原爆慰霊会が主催した肥田舜太郎先生を囲んでの座談会に参加したのですが、その際に肥田先生が「中国戦線では戦況がよくなく怪我をして帰ってきている兵隊がたくさん陸軍病院にいて、日本は勝っていると報道しているラジオを聞いて『また、嘘をついている。うちの部隊は全滅して隊長以下もう誰もいないですよ』と内緒で話してくれるから、陸軍病院のなかでは、僕らはもうこの戦争は勝てないとわかっていました」という趣旨のご発言をされました。
 実は父も全く同様のことを言っていたんです。父は原爆投下前日の日記で「酒宴半ばにして、談偶々時局に及ぶ。戦況、日々に非なるを嘆じ、窮極は悲観論に傾く」と記しています。軍医将校らの酒宴だったためか、みんな実際の戦況を知っていたのだと思います。ですから、その座談会の際にも肥田先生にこの話をしました。
 永本 その点でいえば、戦後の日本政府もアメリカ言いなりで、真実を国民に知らせようとしない姿勢は当時とそれほど変わっていないように思います。
米国言いなりで被爆者救わない日本政府
 工藤 そうですね。これは肥田先生に教えていただいたのですが、戦後アメリカの占領下では、被爆者が受けた被害はアメリカ軍の軍事機密だとされたそうです。それで、被爆者は自分の受けた被害を親であっても話してはいけないといわれ、また、医師や医学者に対しても、被爆者の診察は許可されたそうですが、調査や研究、論文執筆、学会発表はもちろん、医師同士で相談することもカルテを書くことすらも禁じられました。
 広島大学の先生が「原爆ぶらぶら病」の原因は脳が放射線でやられたためではないかという研究をしていたそうなんですが、アメリカからの圧力で大学を解雇され、広島からも出ざるを得なかったといいます。そして、終戦から4年たって米国がつくった原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島中の医師や医学者、被爆者を管理しだしたそうです。このABCCは直接被爆した人のみを検体としていたため、「内部被曝」は全く認められませんでした。
 直接被爆していない人が肉親を捜そうと原爆投下後数日してから広島市内に入り、直接被爆した人と同様の症状で亡くなっていったのを多くの医師が診ていますが、それが「内部被曝」によるものだということが分かったのは米国の論文が発表されたためです。
 実は米国が発表した論文というのは1954年の米国ビキニ環礁における水爆実験で日本の第五福竜丸の乗組員が被曝した際に、東京大学の研究グループが収集したデータを分析したものだったのです。つまり、自国の国民の被曝データを米国からの圧力で米国に提出させられたのです。
 永本 1954年といえば、すでにGHQはなく、日本の主権は回復されていたはずです。原爆を落とされた上、終戦後も被爆者のデータを扱うことを許されず、アメリカの意向に従い続けた結果、日本では放射線障害について研究も進められず、原爆症で苦しむ多くの被爆者を救えなかった。本当に屈辱的だと思います。
 工藤 その通りです。原爆投下当日の日記に父は「夜、某軍医大尉曰く、『これ独り、米英の罪に非ざるなり。戦の罪なり。史書を繙(ひもと)かば、古今東西、かかる例は枚挙するに遑(いとま)あらず。事遂にここに至る。日本敗るるの日もまた近きにあらん』と。」と記しています。
 確かに原爆投下は戦の罪かもしれません。しかし、戦後も被ばく者に寄り添わず核兵器開発を正当化するために放射線被害を隠蔽し続けてきたアメリカとそのアメリカ言いなりに被ばく者のデータをアメリカに提供し、アメリカから原発技術を輸入してきた日本政府には大きな罪があるのではないでしょうか。
治療法のない核被害医師として核廃絶を
 永本 その通りですね。本来であればアメリカ言いなりではなく、唯一の戦争被爆国として功造先生や多くの被爆者が残してくれた資料や証言から核兵器の悲惨さと核兵器使用の罪深さを訴えて世界を核廃絶に導く役割が日本政府にはあるのではないでしょうか。
 原爆をはじめとする核兵器は医療インフラも含めて都市ごと破壊してしまう非人道兵器です。放射線障害に対する有効な治療法もありません。そうであれば、医師として核兵器使用は抑止しなければなりません。核兵器使用を抑止するには核廃絶しかないと思います。だからこそ人々の命と健康を守ることを使命とする医師は核廃絶を目指さなければならないのではないでしょうか。
 先生の話をお聞きし、功造先生の貴重な日記を読ませていただきそうした思いを新たにしました。
 工藤 私も原爆使用に強く反対し続けてきました。被爆体験者がいなくなりつつある今、被爆2世の責務として、引き続き父の戦争体験を語り継ぎ戦争の悲惨さを訴えていきたいと思っています。
 永本 本日はありがとうございました。
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