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兵庫保険医新聞

2025年5月05日(2101号) ピックアップニュース

思い出残す 昭和モダンな診療所
故 野中仁作先生の旧野中外科(姫路市)が国の登録文化財に

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診療所入り口前で。(左から)吉田智子さん、正木茂博先生、野中信二先生、吉田勇輝さん、吉田竜太郎先生

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旧野中外科の外観

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(上)階段上の鶴の形をした照明器具
(下)カラフルなタイルが使用されている病棟の洗い場

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1階にある手術室

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2階の「桜御殿」

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故・野中仁作先生

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中庭で仁作先生の思い出を語り合った

 2020年に101歳で亡くなった野中仁作先生(元協会理事、姫路・西播支部顧問)の旧野中外科(姫路市福中町)の建物が、国登録有形文化財の指定を受けた。正木茂博理事(姫路・西播支部顧問)が旧野中外科を訪れ、次男の野中信二先生と長女の吉田智子さんに建物を案内してもらいながら、文化財指定を受けるに至った経過や仁作先生の思い出などについて話を聞いた。

患者が集まりにぎやかな医院
 正木 故・野中仁作先生には姫路・西播支部でずっとお世話になっていました。先生の100歳のお祝いにご自宅にお伺いしたことを思い出します。その先生の診療所が国の登録文化財になると聞き、驚きました。外から見ると、シンプルな2階建ての建物ですが、どのあたりが評価されたのでしょう。
 智子 父の他界後、設計士の方に見てもらったところ「昭和半ばのモダンな建物」の、特に医療機関は珍しいそうで、価値があると言われました。文化財指定でも「戦後復興期の建物で、木造建築と感じさせない、装飾を省いた外観がモダニズムの特徴を示し、『国土の歴史的景観に寄与している』」と評価されました。
 開業時からそのままの古い建物なので、これまで何度も改装の話はありましたが、父はそのたびに「ええんや」と拒み続けていました。そのおかげだと思っています。
 正木 もともと銀行として建てられたそうですね。
 智子 はい、濱中製鎖工業株式会社の創業者・濱中重太郎氏が銀行として1953年頃に建設し開業を断念した建物を父が買い取ったそうです。1階の受付の形などに銀行だった名残があります。
 正木 言われてみると、入り口の形も医療機関らしくないですね。
 智子 危険だからと昔にふさいでしまいましたが、入り口横の階段には縦長の大きな一枚のガラスの窓がはまっており、手前は小さな庭で、モダンな雰囲気でした。
 信二 1階には診察室があり、親父が閉院まで診療していたそのままで残してあります。開業始めは手術をしていましたので、手術室もあり、診療棟の隣の倉庫を改築して病棟にしていました。
 智子 病棟も診療棟と同じ昭和モダンの雰囲気で、壁面や天井の白色に、ドアなど水色の塗装で、使われているタイルやトイレなども珍しいものだそうです。
 診療棟の2階は数寄屋風で、「桜御殿」と呼ばれる広間になっていて、床の間の真ん中の柱に桜の木が使われています。父の開業当初は家族5人ここで暮らしていました。看護婦さんも当直で病棟に泊まり、患者さんもいて、にぎやかでしたね。盲腸が専門だったので、一週間もすると入院患者さんは元気になって。みんな中庭に集まって話していました。
 正木 この中庭の雰囲気がとてもいいですね。外は繁華街なのに、隔絶され昭和の雰囲気が漂っています。皆がわいわいと話されていた様子が目に浮かぶようです。
 建物の中にはテレビや冷蔵庫、炊事場など、当時のものが残されていて懐かしいですね。文化財の指定を受けると、現在のまま建物や内装も保存しておかないといけないのですか?
 智子 外観を壊さないように修復が必要らしく、時間がかかるので、ゆっくりと準備していこうと考えています。文化財は年に1~2回、公開の義務がありますので、長男の力も借りてきれいにして、皆様に茶話会や展示会などで使っていただけたらと思っています。
90歳超でも診療続け毎月協会の会議に
 正木 仁作先生はご出身も姫路でしたね。
 智子 ええ。京都府立医大を卒業して軍医になり終戦は済州島で迎えたそうです。戦争が激しく専門も外科か内科かくじ引きのような形で決め、戦地に行くしかないような状況だったと言っていました。でも、悲惨な話は絶対言わなかったですね。
 信二 したくなかったんでしょう。終戦後、久留米の方に勤めるよう言われたそうですが、地元・姫路に帰って、国立姫路病院で手術の上手な先生に師事し、開業したようです。
 正木 いつ頃まで手術をされていたのですか。
 信二 開業10数年でやめたので50歳くらいでしょうか。その後、内科的な診療が中心になりましたが、それが長生きの秘訣だったのかもしれません。90歳を超えても1階で地域の患者さんの診療を続けていました。思い返すと、酒好きで飲みすぎて竹やぶで眠っていたり、煙草もよく吸っていたりと、よく長生きできたと思います。ゴルフやテニスで出かけて休日も全く家にいませんでした。
 正木 私が支部幹事になった90年頃からずっと、保険医協会の支部幹事会に毎月必ず自転車で来られていました。
 智子 そうそう、故・奥平誠先生(元姫路・西播支部長)といつも一緒で。
 信二 どこに行くのも自転車で、人としゃべるのが好きでした。他の会議に出席しなくなっても、協会だけは楽しみに毎月行っていましたね。物価高でマイナス改定、医療費抑制が続く今、政府に物申す協会の役割は改めて大事だと感じます。
 正木 そう思います。仁作先生は会議では無口でしたが、情勢の議論などをにこにこと聞いておられて、時々ぽつりと播州弁で発言されていましたね。
 信二 無口とは意外です。
 智子 本当に。その頃には孫をそれはもうかわいがってくれて、学校の送り迎えをしたり、お風呂に一緒に入ったり。散歩されている正木先生ともよくお会いしましたね。
 正木 そうでした。自慢のお孫さんだったんでしょう。皆医師になられ、そのお一人、竜太郎さんが今、智子さんとともに建物を管理されているんですね。
 智子 ええ。今は勤務医ですが、仕事の合間の休日に足を運んで草刈りなどをしてくれたり、どう活用するか専門家の意見を聞いたり、リノベーションについて調べたりしてくれています。
 父もこのような形で孫が野中外科を残そうとしてくれて喜んでいるでしょう。こうして正木先生が来てくださったのもありがたく思っていると思います。今後皆さんにご覧いただき、ご利用いただけるように考えていきたいと思います。
 正木 仁作先生の診療の思い出とともに、野中外科が保存されていくと素晴らしいですね。
 信二 そうですね。私は親父を見て外科は嫌だと耳鼻咽喉科を選びましたが、親父と同じように死ぬまで診療を続けたいと思っています。
 正木 ありがとうございました。
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