2025年10月05日(2114号) ピックアップニュース
第35回反核医師のつどいin東京 参加記
反核医師の会は8月30日~31日にかけて、東京都内で「第35回反核医師のつどいin東京」を開催。「被爆80年 反核平和運動・被爆者支援・被爆医療の歴史を学び継承しよう!」をテーマとし、日本被団協代表委員の田中煕巳さんや若手医師らが登壇するシンポジウムや俳優の斉藤とも子さんの記念講演などが行われた。全国から186人が集まり、兵庫協会からは5人が参加した。近重民雄副理事長・松岡泰夫評議員の参加記を掲載する。
ヒロシマからフクシマ、そして未来へ
私は斉藤とも子さんという名前は聞いたことがある、顔もどこかで見たことがあるという程度の認識でした。
彼女は1999年に井上ひさしさんの戯曲で、「父と暮らせば」というタイトルの劇団こまつ座のお芝居に被爆者の役で出演されました。
被爆者の役をするなら被爆者の気持ちになって演じる必要がある。それで実際にヒロシマに行って、直接3人の被爆者の方の経験や生活そのものを十分時間をかけて聞いたという大変な努力家です。
また、自ら被爆し生涯、被爆者医療にかかわられた肥田舜太郎医師と交流されました。胎内被爆による原爆小頭症の患者さんやその家族との交流(きのこ会)や、その後のフクシマの被ばく者との交流など積極的に活動されており、頭が下がる思いです。
ご自分の講演が終わっても私服に着替えられ、次の座談会を一番前で熱心に聞かれていました。神戸市北区のご出身ということで、機会があれば兵庫県保険医協会にお呼びしてはと考えています。
後半は特別企画、若手医師・医学生の座談会でTPNW(核兵器禁止条約)締約国会議に参加したことについてのディスカッションが行われました。
この企画の特徴はLive-Qという外部ツールを利用していたことです。このツールを使えば講演者への質問は当然ですが、これ以外にフロアの人たちにリアルタイムでアンケートをとったりクイズを出したりすることもできます。
挙手や質問用紙よりもハードルが低いのか、質問する人が大勢みられました。兵庫県保険医協会でも機会があればLive-Qを採用してみてもよいと思います。
「父と暮らせば」から力強いメッセージ
反核医師の会の2日目、斉藤とも子さんの講演「ヒロシマからフクシマ、そして未来へ~肥田舜太郎先生の教えを胸に。」を聞いてきました。民医連の大先輩で、かつて埼玉県連の理事長だった今は亡き肥田舜太郎先生と、彼女との密な関係には「目から鱗」の驚きでした。
肥田先生は、原爆投下時には広島の陸軍病院に勤務する軍医でした。原爆投下の前日に往診依頼があり、広島から6キロメートル離れた瀬戸内海の島に出かけました。遅くなったので、その翌日に広島に帰る予定でしたが、その帰る日に原爆が落ちました。
1日違いで先生は原隊に復帰しましたが、広島は全くの焼け野原でした。被爆し生き残った人が大やけどをし、火傷で垂れ下がった皮膚を引きずりながら徘徊し、そして死んでいきました。
またその時の肥田先生の経験では、直接被爆した人ではなく、後で救援に駆けつけた軍人軍属がしばらくたって体調の不調を訴え、突然吐血し、亡くなる例が散見されたとの事(内部被曝による放射線障害)でした。さらに「原爆ぶらぶら病」と言われる状況も、被爆の影響であると先生は断言されていました。
斉藤さんは、大学院で社会福祉の学びを深め、被爆者の方を研究テーマとされていました。その時は肥田先生からは厳しいアドバイスもあったようですが、素晴らしい師弟関係だったようです。
講演の中で、斉藤さんが出演された「父と暮らせば」という演劇を、実際に「朗読」で再現してくれました。その中で、原爆で亡くなったはずのお父さんが現れて、「おまえの仕事は、二度と原爆の悲劇が起こらないようにすることじゃけん」と強く語られました。
その言葉は、生き残った者やわれわれへの大切な伝言だと感じました。ちなみに彼女の広島弁は、「生粋の広島人」のようで生き生きして、さすが女優さんだと強く感じました。
ヒロシマからフクシマ、そして未来へ
~肥田舜太郎先生の教えを胸に。
副理事長 近重 民雄
記念講演をした斉藤とも子さん
彼女は1999年に井上ひさしさんの戯曲で、「父と暮らせば」というタイトルの劇団こまつ座のお芝居に被爆者の役で出演されました。
被爆者の役をするなら被爆者の気持ちになって演じる必要がある。それで実際にヒロシマに行って、直接3人の被爆者の方の経験や生活そのものを十分時間をかけて聞いたという大変な努力家です。
また、自ら被爆し生涯、被爆者医療にかかわられた肥田舜太郎医師と交流されました。胎内被爆による原爆小頭症の患者さんやその家族との交流(きのこ会)や、その後のフクシマの被ばく者との交流など積極的に活動されており、頭が下がる思いです。
ご自分の講演が終わっても私服に着替えられ、次の座談会を一番前で熱心に聞かれていました。神戸市北区のご出身ということで、機会があれば兵庫県保険医協会にお呼びしてはと考えています。
後半は特別企画、若手医師・医学生の座談会でTPNW(核兵器禁止条約)締約国会議に参加したことについてのディスカッションが行われました。
この企画の特徴はLive-Qという外部ツールを利用していたことです。このツールを使えば講演者への質問は当然ですが、これ以外にフロアの人たちにリアルタイムでアンケートをとったりクイズを出したりすることもできます。
挙手や質問用紙よりもハードルが低いのか、質問する人が大勢みられました。兵庫県保険医協会でも機会があればLive-Qを採用してみてもよいと思います。
「父と暮らせば」から力強いメッセージ
評議員 松岡 泰夫
田中煕巳さん(右2人目)らが被爆者運動の継承をテーマに語り合ったシンポジウム
肥田先生は、原爆投下時には広島の陸軍病院に勤務する軍医でした。原爆投下の前日に往診依頼があり、広島から6キロメートル離れた瀬戸内海の島に出かけました。遅くなったので、その翌日に広島に帰る予定でしたが、その帰る日に原爆が落ちました。
1日違いで先生は原隊に復帰しましたが、広島は全くの焼け野原でした。被爆し生き残った人が大やけどをし、火傷で垂れ下がった皮膚を引きずりながら徘徊し、そして死んでいきました。
またその時の肥田先生の経験では、直接被爆した人ではなく、後で救援に駆けつけた軍人軍属がしばらくたって体調の不調を訴え、突然吐血し、亡くなる例が散見されたとの事(内部被曝による放射線障害)でした。さらに「原爆ぶらぶら病」と言われる状況も、被爆の影響であると先生は断言されていました。
斉藤さんは、大学院で社会福祉の学びを深め、被爆者の方を研究テーマとされていました。その時は肥田先生からは厳しいアドバイスもあったようですが、素晴らしい師弟関係だったようです。
講演の中で、斉藤さんが出演された「父と暮らせば」という演劇を、実際に「朗読」で再現してくれました。その中で、原爆で亡くなったはずのお父さんが現れて、「おまえの仕事は、二度と原爆の悲劇が起こらないようにすることじゃけん」と強く語られました。
その言葉は、生き残った者やわれわれへの大切な伝言だと感じました。ちなみに彼女の広島弁は、「生粋の広島人」のようで生き生きして、さすが女優さんだと強く感じました。
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あなたの一歩が、核のない社会への希望になります。どうか、私たちとともに歩んでください。
※本紙に入会申込用紙を同封しています。お問い合わせは、電話078-393-1807まで
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